Chuka Lovers

中華好き人口を 増やす会2 1:第2回のいきさつ

中国に料理留学!浅草橋「馥香」の高木シェフ、「御田町 桃の木」の小林シェフ、四川飯店三代目「赤坂四川飯店」の陳建太郎シェフが語ります!

※このシリーズは、9月下旬に中国飯店 三田店にて行われた座談会「第2回 中華好き人口を増やす会」の模様をお届けします。


2012/12/11up

1:第2回のいきさつ

ある日のこと。飲み会でふと、こんな話題になったのです。

「フレンチやイタリアンの場合、料理人が本場に渡って、三ツ星レストランで修行して、そこで得た技術を武器に、自らの感性で本場の味を日本に…っていう話をよく聞きますよね。でも中華って長らくそういう話がなかったと思いませんか。トップシェフと言われる人も、本場で修業っていうより、国内の組織で叩き上げの人の方が多いんじゃないかなあ」。

なるほど確かに。歴史を振り返れば、日本が欧米各国と通商条約を結び、横浜が自由貿易港になったのは1859年のこと。ほどなく広東省や福建省などから中国人が横浜に寄港し、三把刀(サンバートウ ※3つの刀=包丁、裁縫ばさみ、散髪ばさみ)を使った商売に進出し始めた…となると、日本の中国人による中国料理店の歴史は、今から約150年前に始まったといえます。

一方で、同時代に勃発したのが、日中貿易断絶の引き金となった「長崎国旗事件(1958年)」。以後、国交が回復されるのは田中角栄内閣の1972年ですから、ちょうど日本に中国料理がもたらされた頃から、政治の上では、1世紀以上にも渡って国交が断絶された状態が続いていたんですね。

また、その間に中国国内では文化大革命へ突入。「贅沢は敵だ!」とばかりに、これまで培われてきた中国美食文化は公的に迫害、衰退の一途を辿りますが、本国の状況がどうであろうと、日本の中華はゆっくりと人々の暮らしに浸透し、家族が囲む「円卓」が作られ、「和洋中」と呼ばれる定番の選択肢のひとつになるほど、着実に存在感を増していったという…。

満漢全席
中国美食文化の代名詞ともいえる料理様式が満漢全席。清朝の乾隆帝の時代に始まり、西太后(1835~1908年)の時代に洗練を極めた北京宮廷料理である。満州族、漢族の料理の中から選りすぐった料理が集められ、盛大な宴の場合は出し物を鑑賞しつつ、数日間で100種類以上の料理を食すこともあったという。(画像提供:新橋亭


円卓
みんなで取り分けて食べる楽しさを教えてくれた円卓は、実は日本で誕生したもの。


担々麺
ゴマ味噌ベースの担々麺は代表的な日式中華。四川省で天秤棒で麺と醤、薬味を担いで売り歩く汁なし麺として提供されていた料理を、陳建民氏が日本人の口に合うよう、ゴマ味噌ベースのスープ麺にアレンジして出したのが広まったもの。


そんなことを踏まえて考えてみると、70年代までに日本に根付いた中国料理は、中国人によってもたらされた本場の調理技法だったものの、広大な中国の中で、その調理技法は戦前の華僑の故郷である広東・福建系、また第二次大戦後の引き上げ者による満州系、そして陳建民氏がもたらした四川系という地域の味にほぼ限定されていたわけです。
また、中国食材や調味料など入荷しない、人や文化の交流もほとんどない、ある意味閉鎖的な環境の中で料理が継承・発展してきたことから、老舗料理店は「日式中華」のおいしさを突き詰めてきたといえるかもしれません。

しかし日中の交流が当たり前のようになった昨今、私たちの身の回りには、今までに食べ慣れない香りや風味、プレゼンテーションによる中国料理が少しずつ現れてきています。旧来の中華の世界に風穴が空いてきたのは、まさに「人」の交流によるもの。中国から日本へ、また日本から中国へと旅立ち、地域の技と味を身に付けたシェフたちの存在は、これからの日本の中国料理を必ずや面白くしてくれるはず…!

そこで今回の座談会は、世代、年代、滞在先、そして料理の系統が異なる3人の中国料理留学経験者にお集まりいただきました。各人にとって、中国へ料理留学に行くとはどんな体験だったのか? また、留学経験によってどんな視点を得、今その経験はどう活かされているのか―――? 料理留学志望者への実践的アドバイスあり、厨房から見た日中比較文化トークあり。全13回の連載にてお届けします。


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Text 佐藤貴子(ことばデザイン)


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記事公開日: 2012/12/11

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