今年中国料理業界から生まれた新ヒーロー、井上さんのバックグラウンドとは?知られざる料理人ヒストリー。

知りたい!井上和豊さんのバックグラウンド

―そもそも井上さんが中国料理人になろうと思ったきっかけは何だったのですか。

井上 中国料理を選んだのは、盛岡で通っていた調理師専門学校の実習で作ったとき、みんなでワイワイ食べたのが「なんだか楽しいな」と思ったからです。料理人という職業には、当時(テレビ番組の)『料理の鉄人』を見ていてて、「ムッシュ(坂井宏行シェフ)、かっこいいな~」と思ってました。漫画では『将太の寿司』に感動していましたね。

井上和豊さん

―その中でも、四川飯店を選ばれたのはなぜですか。

井上 先生に「あんな厳しいところ、お前には無理だ」って言われたのが悔しかったんですよ。その後、先生に「研修に行ってこい」と言われて、1日だけ厨房を見に行かせてもらいました。

行ったのは赤坂の本店です。行ってみると、厳しそうではあったんですが、活気があって、なんだか僕には楽しそうに見えたんですよ。そしたら、当時本店のチーフだった山下さんが「1日じゃわかからないから、夏休みに1週間くらいうちに来いよ。それでよかったらうちに入れてやるから」と言ってくれて。

もうちょっと体験したかったのと、楽しそうだなと思っていたので、夏休みにもお邪魔しました。毎日怒鳴っている人、笑っている人、いろんな人がいて、ガチャガチャしていて、やっぱり楽しそうに見えましたね。

井上和豊さん

この研修が終わった後、菰田が「飯行こう」って誘ってくれましてね。当時は三番手だったかと思います。僕にとっては怖い人っていうイメージしかなかったんですが、「叙々苑」に連れてってくれたんです。

当時は「おいしい肉だなー」と思って食べていましたが、今ならその価値もわかります(笑)。「研修どうだった?」なんて聞いてくれて、意外といい人なんじゃないか?なんて思いました。

でも僕、四川飯店に入社してから、初めて店に「中華の鉄人」がいることを知ったんですよ。先生に「お前は無理だ」と言われたことが腹立たしくて、研修に応募したのがきっかけだったので、恥ずかしながら、社長が誰かも知らなかったんです。

仕事が楽しくなったのはコンテストがきっかけ

―今回の大会で、井上さんは一貫して「自分の仕事を楽しむ」という大切さを伝えてきました。厳しい四川飯店において、どのあたりから仕事のおもしろさに目覚めたのでしょうか。

井上 四川飯店に入社した時、同期は4人でした。でも、2人はすぐ辞めてしまい、辻調出身の松浦と僕が残ったんです。

松浦は技研(辻調理師専門学校の技術研究所)出身で、学生時代は四川料理でバイトしていたこともあって、知識もある。一方僕は田舎の学校から出てきた小僧だったんで、同じ仕事をしているのに、最初から差をつけられて悔しい思いをしていました。

何で同じタイミングで入社しているのに差を付けられているんだ? どうしたらこいつに勝てるのか…? そんなハングリー精神があったからかわかりませんが、入社2年目で、運よく日中協(日本中国料理協会)の料理コンクールで、僕が予選を通過し、香港で行われる決勝に行けることになりました。

実はこの時、他の人の料理には菰田がアドバイスをしたんですが、僕の料理は手の付けようがなかったらしく、「俺はお前のこの料理は直せない」と言われてしまったもので。そのまま出品したものが通って、そこから俄然仕事が楽しくなりました。

井上和豊さん

 

師匠でボス・菰田欣也シェフはどんな存在?

―菰田シェフとは入社前からのお付き合いになります。今、井上さんにとって、菰田シェフはどんな存在ですか。

井上 入社したとき、僕は菰田からガキだガキだと言われ、ずっと「僕ちゃん」って呼ばれていたんです。生意気だと言われてふて腐れて、調理場を出て行ったりしたこともありましたね。

菰田と新しくできる渋谷(スーツァンレストラン陳)に来て15年。菰田がどんな存在かって、常に走り続けていますよね。その背中が見えなくならないよう、追いついていくのが精一杯。昔もそうだし、今でもそう。むしろ今だからこそ、菰田のやってきたことの凄さを思います。

そしてもう1人、上司の佐々もすごくお世話になっています。歳は菰田より若くて39歳。それほど表には出ませんが、実はすごく天才的な人。菰田は世界中国烹飪連合会主催の「中国料理世界大会」で金賞をとったんですが、その後の世界大会で、佐々は特金賞をとったんです。菰田も「盛り付けのセンスでは勝てない」と言って一目置いていますね。

今回の大会に出す料理に関しては、佐々が味付けなどギリギリまで「こうした方がいいんじゃないか」とアドバイスをしてくれました。本当に、感謝してもしきれません。


TEXT 佐藤貴子
PHOTO 小杉勉