中央に天竜川が流れ、東は南アルプス(赤石山脈)と伊那山地、西は中央アルプス(木曽山脈)に囲まれた、南北に細長い伊那谷(いなだに)

標高2,000~3,000m級の高峰に囲まれた地勢ながら、野菜や果物は豊富に育ち、清らかな水には魚が泳ぎ、発酵食や保存食が豊富。そんな伊那谷の食文化を、中国の地方菜の要素をたっぷり盛り込み、提供しているレストランがあります。

その店の名は「中国菜 木燕(ムーエン)」。伊那市駅のすぐそばに店を構えるこちらのスペシャルは、ずばり「伊那谷コース」です。料理の内容は、はじめから終わりまで徹底的に伊那谷の恵みづくし!先日初伊那にして、今秋の「伊那谷コース」をいただいてきました。

伊那谷と呼ばれるエリア。(画像提供:長野伊那谷観光局)

とことん伊那谷!木燕 伊那谷宴席

まず卓上に差し出されたのは、<木燕 伊那谷宴席>菜単。詳細をご紹介すると…

開胃
・故郷を想うアミューズ

伊那谷野菜の前菜6種
・伊那市産落花生の中華風塩茹で
・山芋のドラゴンフルーツ漬け
・牛蒡の四川風豆板醤煮込み
・万願寺唐辛子の雲南トマトソース
・筍の貴州風熟れ鮓
・松茸の雲南傣族風和え物

信州伝統塩イカのマレーシアソース炒め
伊那谷産新鮮ミルクの広東風天ぷら
伊那谷産スッポン 2種類の調理法で
伊那谷産野菜と鶏の成都式春巻

お口直しの伊那産梅ソーダ
信州の味覚「鯉」の地ビール煮
しいたけそば/ドクダミ炒飯

3色甜品
・杏仁と伊那産新鮮ミルクの杏仁豆腐
・信州蘋果酥
・フルーツほおずきと蓮餡のココナッツ団子

なんとわくわくできるお品書き! そして、オーナーシェフの木嶋正明さんがしてくださった料理の説明を振り返ると、伊那谷を知り「木燕」の「伊那谷コース」を味わいつくすキーワードが見えてくるのです。

KEYWORD①パセリと“地方”は生かし方次第

1品目「開胃〜故郷を想うアミューズ〜」は、パセリの天ぷら 花椒塩かけ。パセリというと、彩りを添える役として料理の脇や上にちょこんと飾られていることが多いですが、実は香り高く、美味しい野菜です。

パセリは地元産。

しかし添えもののパセリは特段気に留められず、さらには食べずに残されてしまうことも。

木嶋シェフは、そんなパセリに“地方”の姿を重ね、「地方の魅力はまだ気付かれることなくひっそりと存在しています。伊那谷のよさを、ここから伝えていきたいのです」と話します。控えめながら、心に沁みる開幕宣言です。

KEYWORD②伊那谷食材を中国西南・中南地方の味覚へ美味変換!

野菜、果物、肉、魚、牛乳。いずれも豊富に食材が揃う伊那谷。長野県歌『信濃の国』の一節にあるように「海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき」。その恵みは、前菜からズラリ!

伊那谷野菜の前菜6種。写真左上より時計周りに、筍の貴州風熟れ鮓、松茸の雲南傣族風和え物、伊那市産落花生の中華風塩茹で、万願寺唐辛子の雲南トマトソース、牛蒡の四川風豆板醤煮込み、(写真中央)山芋のドラゴンフルーツ漬け。

料理名に“伊那”の文字を含めていない野菜もほぼ地元産。前菜には伊那谷の秋の味覚、松茸も使われています。調理法や味付けは四川、貴州、雲南を中心に、熟成、発酵、傣族の喃咪(トマトソース)など、中国西南地方の多彩な特色が!

海がないのにソウルフードはイカ!?

炒め物に使われていたのは、長野県民のソウルフード、塩丸イカ。海のない信州には、海と結ばれた「塩の道」があり、そのひとつが新潟県糸魚川から長野県松本へ至る千国街道。この道を通じて、塩と海産物が運ばれていた歴史があります。

その物資のなかで、信州の人々に愛されていたのが塩丸イカ。高温多湿な夏、イカを劣化させない方法として生み出された保存食で、県内消費量は伊那谷を含む南信と松本を含む中信の両エリアで、なんと70%近くを占めるのだとか。

信州伝統塩イカのマレーシアソース炒め。昔は日本海産のイカを使用していましたが、近年では厚みのあるニュージーランド産などで作られているものも多いようです。

伊那市高遠出身の木嶋シェフは、飲食店を営んでいた料理上手のおばあちゃんが作ってくれた、塩丸イカとキュウリの和え物をよく食べていたそうですが、ここ「木燕」ではマレーシアソース、すなわちブラチャン(峇拉煎:Belacan)炒めで提供しています。

蝦醤(小海老やアミの発酵品)のアクセントは塩丸イカとぴったり。金時草、マコモダケ、原木椎茸とともに炒めています。

伊那谷育ちのスッポンを2種類の調理法で

スッポンは、コクのある煮込み料理とスープ仕立ての2種類で。このスッポン、イチゴを栽培しているビニールハウスを応用し、地元の企業「宮下土建」が新たな試みとして、喬木村で養殖を始めたのだそうです。

伊那谷産スッポン 2種類の調理法で。スッポンは、3つの生け簀に約1,600匹を養殖。本業の知識を活かし、できる限り天然に近い環境を作っているそう。

写真右側の煮込みは、生産者の想いを大切に、食材をどこも余すことなく使い切ることに挑んだ一品。肉と内臓を煮て、仕上げにスッポンの血でまとめ、芝平なんばんを加えています。

この唐辛子は、高遠芝平地区で昭和30年代以前から栽培されている信州の伝統野菜。濃厚な煮込みの合間に少しずつ齧ると、鮮烈で爽快な辛味が口直し的役割に。

一方、写真左側のスープは「ぎたろう軍鶏」がベース。伊那谷の北端、辰野町で放し飼いされている鶏で、地下300mから汲み上げた水と厳選された飼料で育てられています。一緒に煮たのは、自家製の熟成ハム、長野県産高麗人参、地場産の棗。

スッポンのとろんとした質感やコク、高麗人参の苦味、「ぎたろう軍鶏」と自家製熟成ハムの旨味、棗のやさしい甘み。それぞれが強い個性を持つ食材にもかかわらず、見事に調和。これだけしっかりした味わいなのに喉越しよく、たちまち飲み干しました。

「宮下土建」では九州で孵化したスッポンを育てていますが、2024年頃には産卵から手がけ、増床も予定中。今後、伊那谷の新たな特産品になるかもしれません。

伊那谷産野菜×ぎたろう軍鶏の成都式春巻

続いて点心は春巻。コリンキー、ニラの根の漬け物、梨、葉付きの間引き人参、そしてスッポンのスープにも登場した「ぎたろう軍鶏」、チシャトウ(ウォースン:茎レタス)を生地で巻いて食べる、伊那谷バージョンの老成都蘸水春卷(つけだれでいただく成都の伝統春巻)です。

伊那谷産野菜と鶏の成都式春巻。ニラの根の漬け物は、白金高輪「蓮香」小山内耕也オーナーシェフからレシピを伝授。

チシャトウは伊那谷でも栽培されますが、収穫時期の都合で今回は台湾産を使用。甘みや苦味など、さまざまな風味が味わえるシャキッと歯応えのよい野菜に、噛むほどにうまみあふれる「ぎたろう軍鶏」。つけだれはわさびダレ。もちろんわさびも信州産です。

信州の味覚!鯉を伊那谷の地ビールで煮込む

信州のは、良質な水に恵まれた環境のもと養殖が盛んで、独特の臭みがなく身が締まっているのが特徴。佐久が有名ですが、県内全域で食べられています。料理は“鯉こく”や、うま煮が定番。新鮮なら刺身も食べることもありますが、ここ「木燕」ではビール煮にして、信州伝統食を新たな視点で紹介しています。

今回使ったビールは『In a daze Brewing』の伊那谷限定「伊那日和 ペールエール」。ホップの香りと苦味がほんのり漂い、鯉料理を食べ慣れない人にも食べやすい印象です。なお、ビールは日によって、駒ヶ根『南信州ビール』の「ゴールデンエール」を使うこともあるそう。

煮込んだ鯉の上にフワリとのっているのは、間引き香菜。春巻きに使われたニンジンも同様、市場に出回ることはありませんが、華奢な見た目ながら味がしっかり濃いのです。

牛乳、梅、しいたけ、ドクダミ、りんご…伊那谷食材はどこまでも!

続くメニューも伊那谷のオンパレード。伊那谷産新鮮ミルクの広東風天ぷらは、広東省順徳の郷土料理インスパイア。添えられたひと粒の実は青スグリの塩漬けで、ほの甘いミルクのアクセントに。好みで山椒塩をパラリ。

伊那谷産新鮮ミルクの広東風天ぷら

お口直しは伊那産梅のソーダ。こちらも自家製。

伊那産梅のソーダ

〆の麺またはごはんは、原木椎茸の和えそば自家製ドクダミ醤の炒飯が選べます。どちらも食材の味を濃厚に感じさせつつ、後味はスッキリ軽やか。

原木椎茸の和えそば
自家製ドクダミ醤の炒飯。ドクダミは葉を使用しています。

最後のデザートは、杏仁と伊那産新鮮ミルクの杏仁豆腐信州蘋果酥フルーツほおずきと蓮餡のココナッツ団子の3品盛り合わせ。

信州蘋果酥。生地にカスタードパウダーを加えることで、りんごとの相性と一体感をアップされていました。

写真中央の信州蘋果酥は、鳳梨酥(パイナップルケーキ)に着想を得た信州産りんごケーキ(蘋果=りんご 酥=サクサクしたもの)。

りんごは自然災害の影響でキズがつくなど、市場に出回らないものを活用しています。中のフィリングはなめらか&シャキシャキ、2種類の食感で。ジャムにしてしまっては想像に難くないとのことで、新たな味わいを創出されていました。

KEYWORD③移住者からもたらされた食材との融和

昨今、伊那谷は移住地として人気が高く、東京・大阪・名古屋など都市圏からのほか、九州からも移り住む人がいるそうです。なかでも宮崎からの移住者により、これまで伊那の店には並んだことがなかった食材が姿を現し、伊那谷の人々に少しずつ馴染み始めているのだそう。

今回の「伊那谷コース」では、前菜で山芋を鮮やかなピンク色に染めていたドラゴンフルーツ、雲南傣族風の松茸の調味に使われていたへべすが移住者によってもたらされた味。人の交流を通じて生まれる、新たな食材との融合もまた、伊那谷の暮らしを表現していました。

KEYWORD④「伊那谷は日本の“雲南”だ!」とシェフが提唱

このような地産地消コースを考えられたのは、伊那市高遠育ちの木嶋正明オーナーシェフ。大好きな料理上手のおばあちゃんの背中を追って、自然と料理人を志したそう。

中国料理に進路を定めたきっかけは、中高生時代、本で読んだ「幻のスイーツ“三不粘(サンブージャン)”」。幻という言葉に惹かれ、自分で作れるようになりたいと一念発起。専門学校で学んだのち、千葉県柏市「知味斎」や、神奈川県藤沢市「中国旬菜 茶馬燕」で経験を積みました。

木嶋正明オーナーシェフ。「茶馬燕」の中村秀行オーナーシェフには、中国西南地方やアジア全域について、レシピ、食文化、生活の様子などを教えてもらったことが生きているそう。日本最大級の若手料理人コンペ『RED-U35』では、二度のブロンズエッグに輝いています

一時は首都圏での独立開業も考えたものの、数年ぶりに伊那へ帰省した際、想像以上に寂れていた故郷に衝撃を受け「自分が地元のためにできることは何か」と考えるように。

そこで目が向いたのが、伊那谷の風土と豊かな食材です。高い山々に囲まれた地理、海なし県でも豊かな食材、きのこシーズンの多種多彩なラインナップ、子供のころ自分で獲って食べた蜂の子。そこで木嶋シェフは気づくのです。これはもしや中国西南地方、内陸のあの場所と似ている…。そうだ、「伊那谷は日本の“雲南省”だ!

この接点を見出してからは、地元食材を生かした店づくりを計画。料理を通じて伊那の食を発信していけば、遠方からも伊那を訪ねる価値のある店ができるかもしれない…。そんな想いのもと、2019年に開業したのが「中国菜 木燕(ムーエン)」なのです。

黒板メニューも必見。

ご紹介した「伊那谷コース」は、シェフの想いが詰まったストーリー。一方、黒板に書かれた季節のアラカルトメニューは、主に地元の方に向けて、熟知しているはずの地元食材を、中国料理で再発見してもらえるメニューにしているそう。

ですが、中国料理を通じて「やっぱり伊那は素晴らしい」と魅力を再認識できるきっかけになるのは、遠方の客も地元の方も、きっと同じではないかと思います。

あずさ、車、高速バス。次のロケーションは伊那谷へ!

さて、伊那への旅ですが、周辺観光、アルプス登山と組み合わせてゆったり旅程に組み込むもよし、中央道ドライブ旅もよし。料理が好きな方なら、近隣の直売所も見逃せません。とりわけ秋は天然きのこのシーズンとなり、このような売り場が見られることも。

松茸の季節到来を告げる手書きPOP。
今年は豊作!選別されたものに加え、サービス特価の計り売りコーナーも特設されました。

でも、車も鉄道もハードル高い…と嘆きかけた方に朗報が。「バスタ新宿」から伊那市へ直行便があるのです!

所要時間は約3時間45分(2021年秋季実績)。車窓に迫り来る山々の風景は、まさに雲南での長距離バス移動の如し。「木燕」を目的地にお出かけになり、“雲南を旅するように”、伊那谷の豊かな食を楽しんでください!


中国菜 木燕(ムーエン)

長野県伊那市荒井3447-3(MAP
TEL:0265-97-1401
営業時間:
ランチ11:30-14:00(13:30 L.O.)★月~水ランチはコース予約のみ。木~土は予約なしOK
ディナー17:00-21:30(20:00最終入店)
定休日:日曜・第2月曜・ほか不定休

※伊那谷コースは5日前まで、その他コースの予約は前日22:00までの受付になります。
※現在、客席は十分なソーシャルディスタンス確保のため、1~2組に限定しています。
※予約詳細は店舗WEBサイトにて随時更新しています。


text & photo :アイチー(愛吃)
中華地方菜研究会〜旅するように中華を食べ歩こう』主宰。中華料理にまつわるコーディネート、アドバイス、監修などを行う。一つの「食」を愛し、味も知識も徹底的に極めた「偏愛フーディスト」がプロデュースする期間限定レストラン『偏愛食堂』中華料理担当として、多彩な中華地方菜の楽しさを伝えている。

画像提供(マップ):長野観光局