好評シリーズ第3弾は、日本を代表する中国料理店、Wakiyaグループでサービス部門を統括する萩原清澄さん。要人の密談から祝いの場まで、数々の現場を経験したサービスマンの視点とは…?

業界初!著書をもつ中華のサービスマン現る

Wakiya 迎賓茶樓の店頭に、脇屋友詞シェフの本と並ぶ『サービスマンという病い』という一冊。それはWakiyaグループ統括支配人であり、いまも現場でサービスに従事する、萩原清澄(はぎわらきよと)さんが書いた本です。

飲食店でサービスマンの著書を見かけることはまずなく、Amazonで検索しても、現役サービスマンの著書はない。平たくいうと普通ではない。その時点で、萩原さんのユニークさ、Wakiyaという企業のユニークさが察せられます。

萩原清澄さん

「続けて来ていただき、ありがとうございます」

そう店で常連のお客さまを迎える萩原さんは、多くの顧客をもつ敏腕サービスマンでいて、サービス業の価値を変えたいと願う挑戦者。とはいえ、今の意識に至るには、いくつもの出会いや悔しい経験がありました。従来のサービスマンのイメージを覆す萩原さんの言動を、その歩みとともにご紹介していきます。

脇屋友詞シェフに誘われ、中華の世界へ

現在37歳の萩原さんが、初めて接客の仕事をしたのは16歳の時。

「スノーボードができる雪山のロッジで働きたいと思ったんです。でも“高校生不可”が多く、30軒は断られましてね。あるロッジで『うちは滅茶苦茶厳しいけどできるの?』と聞かれ、『大丈夫です。根性ありますんで!』と答えたら、雇ってもらえました。

そこでは毎朝4時半起床。大学生ばかりの中、一番下っ端として3週間働き、稼いだ金額は15万円。そのときのマダムは、16年間ずっと今まで年賀状を送ってくださいます」

若くしてメンタルの強さを感じるエピソード。そして高2の夏休み、そのアルバイト代を渡航費に、1カ月間、ロンドンのあちこちを巡った萩原さん。秋に学校に戻ると同級生が子供に見え、「やっぱりいろんな経験をした方がいい」と実感。さまざまなアルバイトを繰り返し、大学生になってからもバイト尽くしの生活を続けていると、叔父である脇屋シェフから声をかけられました。

「歌舞伎町のバーで働いていた頃、『おまえフラフラしてるよな。その店を今日やめてうちに来い』と突然言われたんです。ちょうど一笑美茶樓の立ち上げのときですね」

「そのまま店で働きながら就職活動を終え、何社か内定をいただきました。ただ、脇屋にも『一度面接に来るように』と言われたので、リクルートスーツを着て行ってみたんです。

すると行くや否や『スーツ脱げ』と言われて、気づいたらテーブルを運んでいました(笑)。『いつから来れるんだ?』と、一秒も面接せずに入社です」

まさに縁と成り行き。面接はなかったにしても、萩原さんの働きぶりを見てきた脇屋シェフのアンテナが立ったことは言うまでもありません。しかし、その誘いは、萩原さんのコンプレックスに繋がっていきます。


TEXT 大石智子
PHOTO 永田忠彦