中国に料理留学ってどんな感じ?浅草橋「馥香」の高木シェフ、「御田町 桃の木」の小林シェフ、四川飯店三代目「赤坂四川飯店」の陳建太郎シェフが語ります。

ある日のこと。飲み会で、こんな話題になったのです。

「フレンチやイタリアンの場合、料理人が本場に渡って、三ツ星レストランで修行して、そこで得た技術を武器に、自らの感性で本場の味を日本に…っていう話をよく聞きますよね。でも中華って長らくそういう話がなかったと思いませんか。トップシェフと言われる人も、本場で修業っていうより、国内の組織で叩き上げの人の方が多いんじゃないかなあ」。

それもそのはず。日本では、各地で活躍する華僑の料理人がいて、国内で中国料理を学べる環境があったからです。

歴史を振り返れば、日本が欧米各国と通商条約を結び、横浜が自由貿易港になったのは1859年のこと。ほどなく広東省や福建省などから中国人が横浜にやってきて、三把刀(サンバートウ ※3つの刀=包丁、裁縫ばさみ、散髪ばさみ)を使った商売をはじめます。

そのなかで、広東省佛山市の順徳や中山からやってきた華僑の二代目が、都内大型ホテルの料理人として活躍し始めます。ホテルオークラ「桃花林」の料理長を務めた梁樹能氏や、さらに下の世代では周富徳氏、譚彦彬氏の名前を知る人も多いことでしょう。

円卓
みんなで取り分けて食べる楽しさを教えてくれた円卓。

また、戦後に中国料理の発信拠点となったのが田村町、現在の新橋です。ここに、陳建民氏が1958年に開業した店が「四川飯店」(現在は赤坂に本店)。建民氏は、本来四川料理に使われる香辛料・調味料を日本のものに代替し、日本人に受け入れられる四川料理を広めるとともに、恵比寿に「中国料理学院」を開き、多くの日本人料理人を育てました。

担々麺
ゴマ味噌ベースの担々麺は代表的な日式中華。四川省で、天秤棒で麺と醤、薬味を担いで売り歩く汁なし麺を陳建民氏が日本人の口に合うよう汁麺にアレンジ。これが全国へ広がりました。

しかし昨今、私たちの身の回りには、今までに食べ慣れない香りや風味、プレゼンテーションによる中国料理が少しずつ現れてきています。

その理由は、間違いなく人と食材の交流でもたらされたもの。中国から日本へ、また日本から中国へと旅立ち、地域の技と味を身に付けた料理人が、徐々に日本の中華を変えています。

そこで今回の座談会は、世代、年代、滞在先、そして料理の系統が異なる3人の中国料理留学経験者にお集まりいただきました。各人にとって、中国へ料理留学に行くとはどんな体験だったのか? また、留学経験によってどんな視点を得、今その経験はどう活かされているのか?

料理留学志望者への実践的アドバイスあり、厨房から見た日中比較文化トークあり。全13回シリーズでお届けします。

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Text 佐藤貴子