お弁当やサイドメニューに人気の点心といえば焼売だ。そのかたちは、日本では崎陽軒に代表される円筒型が一般的である。一方で、都内屈指の伝統ある中国料理店では、富士山型の焼売が店の味として受け継がれている。どういう経緯で、なぜその形で作られているのだろう。

西新橋の交差点にほど近い、大通り沿いの『新橋亭』。朝9時の厨房は、焼売の仕込みに忙しい。

しかしこちらの焼売、ちょっと他とは違うのだ。皮は厚く、肉は多く、富士山型の重量級。市販の皮で焼売を握ったことがある人は、これを見て握り方の違いに驚くかもしれない。YouTubeで「焼売の作り方」と検索しても、こんな「てるてる坊主」とはまず出会えない。

蒸すと富士山のようなかたちになるこの焼売は、『新橋亭』の看板メニューのひとつだ。同店生え抜きの料理長である角田守さんは、黙々と手を動かしながらいう。

「1度に仕込む量は肉8kg相当です。だいたい、焼売90個分ですね」

料理に携わる人や、数字に敏感な方なら、ここでいったん思考が止まる。1個平均90gである。参考までに、崎陽軒のシウマイは1個約14g。スーパーなどでジャンボ焼売として売られているものは32~42gほどだ。

しかしなぜこんなに大きいのだろう。そこには、『新橋亭』の歴史と想いが重なっている。

日本人の喜ぶ料理を目指して生まれた、富士山型の巨大焼売

『新橋亭』の創業者は、中国福建省出身の呉宝祺(ご ほうき)氏だ。福清市の農家に生まれ、上海で料理の修業を積んだ宝祺氏は、その世界では一目置かれる料理人だったようだ。

のちに『雅叙園』創業者の細川力蔵から『目黒雅叙園』を開くにあたって声を掛けられ、来日したのは1931年(昭和6年)のこと。一方、1930年代の日本は軍国主義化が進んだ時期である。40年代に入り、いよいよ大戦が激しくなると、日本人の料理人は次々と戦争に駆り出され、ホテルは人材不足となっていた。

そこで外国籍であった宝祺氏が、和洋中すべてのレストランを統括する総料理長に就任する。この経験を通じて、宝祺氏は各ジャンルの料理の知見を得て、戦後まもなく独立を決める。

創業の地は、現在ドラッグストアの『ウエルシア』になっており、『新橋亭新館』の看板がかかるのが現在の旗艦店となる。田村町は、戦後の復興と高度経済成長の重なりによって、中国の料理人と美食とが集結。「リトル・ホンコン」と呼ばれるまでに。

こうして『新橋亭』は1946年(昭和21年)、当時の田村町(現在の新橋)にオープンした。新橋にお店を構えた理由は、政治と行政の中心であり、外国人を含めた多くの顧客を集めることができたためだ。

しかし、宝祺氏は心の中でこう決めていたと、孫の祥維氏は話す。「雅叙園時代から日本人に世話になった自分だ。日本人が元気のでる料理をつくりたい」。

そこでヒントになったのが、上海で暮らしていたときに食べた焼売だった。上海の焼売というと、今ではもち米を詰めた焼売のイメージが強いが、かつては肉も肉汁もたっぷりと入った、シンプルな味付けの焼売が売られていたのだ。

「1つ食べれば満足感でいっぱい、数個食べればお腹いっぱいになる。イメージは高く大きな富士山です」。

こうして約70年前、『新橋亭』の名物が誕生した。その焼売の作り方が、今の日本ではなかなか見られないユニークな作り方なのだ。次のページで紹介しよう。

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