お弁当やサイドメニューに人気の点心といえば焼売だ。そのかたちは、日本では崎陽軒に代表される円筒型が一般的である。一方で、都内屈指の伝統ある中国料理店では、富士山型の焼売が店の味として受け継がれている。どういう経緯で、なぜその形で作られているのだろう。

「富士山型の焼売の秘密-1|1個90g!『新橋亭』で70余年作り継がれる焼売にオールド上海の輝きを見た」から読む

日本の主要な新聞には「首相動静」という記事がある。新聞によって「首相官邸」などタイトルは異なるが、時の内閣総理大臣がその日1日何をしていたか、分単位ですべて記録され、公開されているものだ。

そこに時折登場するのが、ザ・キャピトルホテル 東急の中国料理「星ヶ岡」である。

頻度の多少こそあれ、ここは歴代の総理大臣が利用してきたレストランだ。店内は個々のスペースが保たれ、モダンながらどこか温かみのある空間が心地よい。当然、個室も充実しており、ここに来ると、あの方もここでひと時を過ごしていたんだな…などと想像が逞しくなってしまう。

ザ・キャピトルホテル 東急の中国料理「星ヶ岡」のエントランス。

政財界御用達。社交場として開かれた、歴史ある跡地の今。

そもそも「星ヶ岡」のあるザ・キャピトルホテル 東急は、1884年(明治17年)要人の会合や上流階級の社交場として開かれた「星岡茶寮」の跡地に建つ。

1925年(大正14年)には、美食家・芸術家などさまざまな顔を持つ北大路魯山人と、中村竹四郎が経営する会員制の高級料亭となり「星岡の会員にあらずんば名士にあらず」といわれるほど名を馳せた。

1945年(昭和20年)には空襲によって消失したが、戦後の混乱を経て1956年(昭和31年)、実業家であり、東急グループの創始者である五島慶太の所有地に。ここにオープンしたのが、中国料理店「星ヶ岡茶寮」だった。

場所は首相官邸、議員会館もすぐ近く。ザ・キャピトルホテル 東急になった今でも、中国料理店に「星ヶ岡」の名前が残り、政財界御用達であるのは自然な流れともいえる。

明治時代の「星岡茶寮」。当時は日枝神社の一角にある小高い丘に位置していた。(画像提供:ザ・キャピトルホテル 東急)

そして富士山型の焼売は、ここ中国料理「星ヶ岡」でも見ることができる。

竹の蒸籠で提供される焼売は、てっぺんまで詰まった肉餡の上に、肉汁がきらめいている。皮はむちっとしており、厚みは一般的な焼売の5~6倍はあるだろうか。

味付けはやさしく、ほのかな甘みは添付のカラシとも好相性。チョン、とつけて食べるのもこの店らしい楽しみ方で、一般的な焼売とは異なるものの、日本人がほっとする味であることは間違いない。

早く食べろと誘ってくるような「星ヶ岡」の焼売。

そんな焼売のルーツは1960年(昭和35年)、東急ホテルズ1号店として開業した銀座東急ホテル「中国料理 孔雀庁」のブッフェメニューにさかのぼる。

銀座から永田町へ。東京の中心で脈々と受け継がれる焼売は、どんな経緯で誕生し、どのように作られているのだろうか。次のページで紹介しよう。

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