中華なのにイタリアファッション、料理に合わせてドンピシャワイン。今回の「惚れる!中華のサービス」シリーズでご紹介するのは、浅草橋で行列の絶えない老舗。サービスこそ「替えのきかない仕事」と感じさせてくれる、この方です。

昼どき行列のできる中華として40年。
味もいいけどマスターに会いたい!

「いらっしゃいませ♪」 入口のガラス扉を開けるととびきりの笑顔で迎えてくれる「水新菜館」のマスター、寺田規行さん。地元では知らぬ人のいないこの大衆中華料理店があるのは浅草橋駅のほど近く。ドーンと目を引く、真っ赤で大きな看板の下、途切ることのない行列を迎え続けています。

そして今日も「マスター」はイタリアを想起させるファッションで、客席の間をスマートに立ち回っていました。

寺田規行さん

ところでマスター、およそ中華料理店らしからぬそのファッション。何がきっかけでいまのスタイルができあがったんでしょう。

「いまのスタイルになったのは、この10年くらいですね。それ以前もイタリア調ではあったんですが、白いシャツに黒のズボンと黒の蝶ネクタイという、オーソドックスなサービスマンのスタイルだったんです。でも、うちは大衆的な中華料理店だし、色はそこまでかたくるしく考えなくてもいいかな、って。イタリアのクルマも好きでしたし。アッハッハ!」

古くから続く問屋街でもある浅草橋。水新菜館の近くにも衣料雑貨の工場や問屋があり、カラフルな蝶ネクタイやイタリアンカラーのサスペンダーなども、「そのへんで」買い求めるのだそう。そんな問屋街の浅草橋で、店が開業したのは1897(明治30)年のこと。今年で創業からちょうど120年になります。

今明かされる「水新」の由来。

「創業者は寺田新次郎。うちの曾祖父さん……になるのかな。当時は中華料理店じゃなく、フルーツショップとして開店したんです。明治の中頃ですから相当ハイカラだったみたいですね。しかも果物を売るだけじゃなく飲食部門――いわゆるフルーツパーラーもやっていた。フルーツは『水菓子』ですよね。『”新”次郎の”水”菓子屋』で、屋号が『水新』になったんです」。

なんと、創業者の名前と業態の掛け合わせ! しかもいまでは大衆中華の名店として知られる水新菜館も、創業時には中華の「ち」の字もなかったというのです。もっとも創業以来、飲食部門は好調で、徐々に軸足をフルーツの販売から、あんみつやかき氷などを店内で食べさせる甘味処に移していったのだとか。

生まれも育ちも浅草橋。中華に舵を切ったのは「私」。

「そういえば、1949(昭和24)年生まれの私の生家もここなんです。みかんの山に囲まれながら、親父に抱かれた写真がありました。戦後も業態としては甘味がベースだったと思います。フルーツみつ豆やかき氷。僕が物心ついてからはラーメンや焼きそばなんかも出していましたね。

僕は僕で中学生から飲食店でアルバイトをしていました。中学の頃は近所の中華料理店、高校でイタリアン。結局、大学も食品化学科に入ったんです。アルバイトで食品メーカーの官能テストのテイスターなんかもやりました。本当は醸造をやりたかったんですけどね。お酒飲めて楽しいなあ、と思って。フフッ」

そんな大学4年生当時、70年安保闘争で大学の授業が軒並み休講に。単位もほぼ取得していた寺田青年は店を手伝うようになります。かき氷をかき、学生時代の経験をいかして焼きそばの鍋振りも。ところが大学を出てすぐ、先代であるお父様をなくされてしまいます。

「とにかく店を切り盛りしなきゃいけない。ラーメンと焼きそばは好評だったから、そこを軸に据えることにしたんです。それに好きだった餃子とチャーハン。実は中華に舵を切ったのは私なんですよ(笑)」

1974(昭和49)年の改装で中華料理店に業態を転換。このとき、店名も「水新菜館」になったのです。

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