高木「僕が飛び出した理由が何かというと、はっきり言っちゃうけど…」。3人のシェフが中国に渡った理由とは。
それぞれの留学事情
――実はこの座談会のきっかけとなったのが、ある席で「フレンチやイタリアンの場合は、料理人が本場での修行を経て、そこで得た技術と感性をベースに日本で開業…という流れが本格的なレストラン開業の王道のひとつになっているのに対し、中華の場合はまだ稀だよね」という話題になったことでした。 確かに中華では、トップシェフと言われる人も、現地に滞在して修行を積んだ経験のある人は少なく、国内の組織で叩き上げの人が多いのではないでしょうか。
小林――確かに、高木先生の年代(※編集部注:高木先生は1949年生まれです)で中国・台湾に行った日本人の料理人って、ほとんどいらっしゃらないですよね。
高木――周りで行ったというのは聞いたことなかったね。じゃあ、僕が飛び出した理由が何かというと、はっきり言っちゃうけど、生ぬるい態勢だったからですよ。ここにこのままずっといたら、多分自分がダメになるだろうな、と。だって、たっぷりいい温泉に浸かっていたんだもん。何不自由なく。
――そこで、「本場でやってみたい」という気持ちがむくむくと…。

高木――そうそう。でも元々、若いときからそういう思考はあったんだよ。夢として、どこかの大きなホテルの料理長やりたいとか、自分で商売したいっていうのがあって。で、そのためには、日本で鍋振って中国料理を作り続ける道もあると思うけど、やっぱり本場も経験した方がいいだろうと。
なんにせよ、それまでは日本しか見ていないから「本場は何か違うんじゃないか」という想いがありました。 それで若いときからちょっとずつ準備して、希望をもって中国語を勉強して、夢叶ったのが39歳。その歳の誕生会は台湾でやってもらったことを思い出します。
――どうやって留学の足がかりを見つけたのでしょうか?
高木――友人がセッティングしてくれたんです。
――では、周囲にお声がけして「行きたいんだけど」と、信用できそうな人にお話をしていたわけですね。
高木――そうそう。でもやっぱり女房は心配するわね。「女ができたんじゃねえか?」とか…、わかるでしょ?(笑) 80年代の台湾っていったら、男性の団体ツアーがいっぱいいるわね。見ると、みんな現地の女の子を連れててさ。やっぱりそれは心配でしょう。だから最初、家族を連れて台湾に行きました。
小林――家族を連れていったんですか?
高木――そう。実際に行く前の視察としてね。やっぱり実際に見ないと、信用しないだろ?家族みんな連れて行って、「俺はここで働くから」、と宣言した。あれは上の子が11歳の時だな。「馥園(フウエン)」のオーナーの楊さんにも「奥さんのこと、心配ですね」なんて言われてね。「でも大丈夫、私がいるから」って言ってくれた。女房に信用してもらえたのは、楊さんが女性だったことも大きいかもしれない。
一同――笑
――その間の生活はどうされていたんですか。
高木――無収入でした。アパート借りながら無給で働いて。あの当時、留学資金ということで200万くらい使ったかな。だからもう、俺は一時家族を捨てたというか、犠牲にしたような感じだよね。でも今思えば、今の俺があるのはあの経験のおかげ。それを思えば何てことはない。何より行きたいという想いが強かったんだ。
――店を3回変わったのは、楊さんのご紹介やアレンジがあったのでしょうか。
高木――そういうことです。でも、腹が立ったこともありました。「陶陶(タウタウ)」が、「勉強したいなら100万出しなさい」と、こうおっしゃるんです。悪い奴がいたんだよね…。1988年、当時は「陶陶」が台北で一番繁盛していた店だから、強気に出たのかもしれません。そこでちょっと揉めはしましたが、ここでも楊さんが守ってくれました。
――そうして1年間台湾にいらして、再び東條會舘に戻ってこられたのですよね。
高木――そうそう。それは行く前に誓約書を書いたからよ。
――辞めるな、と?
高木――そうそう。最初はいきなり辞表出して「辞めさせてくれ」と言ったの。俺は目的があるから現地に料理を学びに行きたいと。そしたら人事と揉めてね。
――留学に行く前はどのポジションにいらしたんですか?
高木――2番手です。責任もある立場だったから、帰って来たら復帰してくれという形になって。もちろん会社側も俺の条件を承諾してくれたよ。それは、日本に子どもがいるので風邪ひいたときは保険だけは使わせてほしいってこと。それだけは会社が請け負ってくれたね。
――80年代に留学した高木シェフに次ぎ、90年代の香港に留学されたのが小林シェフですね。それは香港の返還前のことでしたか?
小林――返還後でした。高木先生はいい時代とおっしゃいましたが、こちらはそれほどいい時代ではなかったですね(笑)。むしろ「今、香港に来てもあんまり仕事を覚えられないぞ」と言われていたんです。
香港返還
|
――どういうことでしょうか?

小林――返還前は、中国政府がどういう風に香港を扱っていくかを決め兼ねていたんですよ。それで向こうのコックさんたちが騒いでしまって。香港から出て行っちゃう人もいたし、海外留学するという人もいましたね。返還前だったら何かあってもすぐに逃げられるけど、資本主義から共産主義の中国に変わったら、これから自分たちの暮らしがどうなるかわからないってことで…。
結局、50年間は政治的なところで大きな変革はせず、公的には現状維持という発表が出てからは、みんな落ち着いてきたんですけどね。
――それでも香港を選ばれたのはなぜでしょうか。
小林――当時、僕は広東料理が一番だと思っていたので、ぜひ香港で仕事がしたいと思っていたんです。なぜかというと90年代、今から約20年前は、海外発の中国料理情報のほとんどが台湾または香港からのものだったんですよ。そして、香港には世界中の料理があって、料理にも斬新さ、新鮮さがあった。僕は香港に魅了されていたんですね。
――どのようにして、香港に留学するルートを見つけたのでしょうか。
小林――当時在籍していた、辻調理師専門学校時代の先生のご紹介で行かせていただきました。よく、フレンチとかイタリアンの人で、店に押しかけてお願いしますと頼み込んで…っていう話を聞くじゃないですか。中華の場合はあり得ないですよね?やっぱり人のツテがないと。
一同――(うなづく)
陳 ――やっぱりみんな誰かしら、知り合いを通じて行ってますよね。食材業者さんの紹介や、同じ店で働いていた中国人シェフの紹介とか。
――陳建太郎さんは、成都の「菜根香」に2000年代に留学していますね。

陳 ――2005年ですから、7年前になります。僕の行った時代の成都は、なかなか面白かったと思いますね。中国は2008年に北京オリンピックを控えていて、経済とともに、料理もそこに向けてどんどん発展していった時期ですから。
現地の調理法もさまざまなものを取り入れて変化していきましたし、どんどんいい食材も入るようになってきて…。その一方で、安い店を訪れてみれば、昔ながらの古き良き料理も残っていたという環境でした。そういうものを生で見られ、肌で感じることができたのは貴重な体験です。
――四川飯店グループから同店に留学されたのは、建太郎シェフが初めてですか?
陳 ――そうです。僕の場合は、お互いの社長同士の付き合いがあったのでこの店に入ることができました。本当に、周りの環境にただただ恵まれていたなという感じです。
でも、日本でこのままじゃ絶対駄目だとずっと思っていましたし、中華料理をやるには絶対に言葉をしゃべれるようになりたいし、どうしても現地に行きたかった。自分の目で1カ月間でも、1週間でもいいから見たいなと。それが、たまたま行ける条件が揃ったので行かせてもらえたわけです。中華を始めるいいスタートを切れたことに対して、周りには本当に感謝しています。
四川飯店グループ日本の中国料理の父とも呼ばれる陳建民氏が1958年に開業した「四川飯店」とその支店、またのれん分けした店舗の総称。毎年正月には、日本全国にある「四川飯店」のメンバーが一同に集結する新年会が、その本拠地である赤坂四川飯店にて行われる。店の歴史については『麻婆豆腐の女房-赤坂四川飯店物語』(吉永みちこ著・光文社刊)『さすらいの麻婆豆腐-陳さんの四川料理人生』(陳建民著・平凡社刊)などに詳しい。 |