台州の極太焼き春巻「餃餅筒(ジャオビントン)」は地元のソウルフード

台州になくてはならないソウルフードといえば、餃餅筒(ジャオビントン|饺饼筒)です。旧暦の大晦日に食べる年夜飯、旧正月にあたる春節、春の端午節、農作業の合間のごはんなど、台州で人が集まる場所は、必ずといっていいほどこの小吃(軽食)が傍らにあります。

餃餅筒は、いってみれば台州式の焼き春巻のようなもの。厚めの春巻の皮に似た小麦粉の皮で、加熱調理した豚肉、きくらげ、春雨など、ひとつひとつ炒めたり煮たりしたものを、何種類か合わせて巻いて、表面を香ばしく焼いて仕上げます。

一般的には直径25~30cmくらいの皮で具を巻きます。最後に焼くことで香ばしくなります。焼きたては最高です!
餃餅筒。こちらは春雨がやや多め。

特に思い出に残っているのは、旧正月の前日、天台にある通玄寺の大掃除の手伝いをした後のこと。お寺のボランティアのみなさんが作り、僕たちに振る舞ってくれたのが、精進の餃餅筒でした。

一般的に餃餅筒は豚肉も野菜も豆加工品も入りますが、仏教寺院の餃餅筒は肉を使いません。準備されていた具は、きのこ、キクラゲ、筍、にんじん、豆腐干、チシャトウなど。うまいなあと思ったのは、黒ゴマの使い方。春雨を擂った黒ゴマで和えており、精進素材に絶妙なコクを与えていました。

通玄寺で、大掃除の後に出してくれた餃餅筒。すべて精進食材です。

この通玄寺は、日本語の「いんげん豆」の語源になった隠元隆琦禅師が修業していたお寺です。隠元禅師は、1654年に63歳で日本に渡り、黄檗宗を伝えた僧侶。煎茶、西瓜、孟宗竹、現在の木魚のルーツとなるものなど、さまざまな文化を日本に伝えたといわれます。こうした場所に来ると、おのずと天台と日本の縁を感じますね。

また、台州の中でも、僕のいた天台では餃餅筒(ジャオビントン)と呼んでいますが、「新栄記」本店のある臨海や、塩豚で有名な仙居では食餅筒(シービントン)青蟹で有名な港町の三門では麦焦など、同じ台州市内でも地域によって呼び方が変わります。

天台では、旧正月から1週間くらいの期間、街の中(山の麓の方)を歩いていると、昼時はみんな餃餅筒を持って歩いている姿が見られます。旧正月でなくともこの界隈ならどこでも見られますので、ぜひ食べてみてください。

天台暮らしを振り返って

最後に、天台で暮らし、働いた経験を振り返ってみると、とても楽しく、人が優しかったという想いに尽きます。20年近く中国と日本を往来し、さまざまな人たちと交流してきましたが、天台の人たちは特に優しかったですね。

僕が帰国する前に、よくしてくれた皿洗いのおばちゃんたちは泣いて見送ってくれ、シャイだけれども人知れず真面目に働いていた天台出身の料理人は、最後に僕を家に招き、家族で食事をもてなしてくれました。

また、土地柄からか、天台の人たちからは信心深さも感じます。パンデミック最盛期に周辺都市が次々と封鎖されても、天台のみが無傷だったときは「何があっても天台山が守ってくれている」と皆口々に言っていましたし、事あるごとに天台山のご加護を口にしていました。天台山のように、すぐそばにある大いなるものの存在が、人々の心を広くしているのかもしれません。

天台山の象徴でもある国清寺の水田。寺の人々は、ここで収獲された作物を日々の食事にしています。

また、中国人の思いやりにたくさん触れた一方、中国の厨房で料理長として働いてみて、日本人の中国料理人は優秀だと改めて思うこともできました。

なぜなら、日本人の中国料理人の多くは、包丁仕事、鍋振り、前菜の準備、魚おろし、餃子や肉まんなど点心を握るなど非常に万能です。このスキルを持って中国にいくと「なんでそんなになんでもできるの?」と一目置かれるのです。

中国ではひとつの持ち場が決まったら、他の仕事はしないのが当たり前です。一方、僕がこれまで働いてきた日本の厨房では「自分の仕事範疇以外は関係ない」という考えはありません。床にものが落ちていたら誰かが拾いますし、間に合っていない仕事はみんなでフォローします。

恐らく今後、ニーズと本人の希望とタイミングさえ合えば、スキルのある日本人の中国料理人は中国でもやっていけることでしょう。中国人と組んでもいいでしょうし、オール日本人のチームを作って、中国でさまざまな夢を掴むこともできるかもしれません。

最後になりましたが、2021年より2年少々、全8回10記事の連載をありがとうございました。いつか浙江省や江蘇省、福建省訪れることがあったり、中国の食文化を紐解きたくなったとき、この記事を思い出していただけたら、こんなに嬉しいことはありません。

読めば中華に詳しくなる!まとめて読みたい>山口祐介の江南食巡り


語り・写真:山口祐介
聞き手:サトタカ(佐藤貴子)